デザインに関する覚書 — たとえば薔薇と林檎に向ける眼差し —
私はあるデザインを始める時、それを取り巻く様々な環境から象徴となるモチーフを取り出し、それらに思いを巡らせます。花器や果物を収める器をデザインするならば、花と果実、そして愛する女性について思いを巡らせます。かれら(花、果実、そして女性も)にはそれぞれに背負う独自の運命があります。本来の運命かもしれませんし、自らが選択した運命かもしれません。あるいは、他者によって曲げられた運命もあるでしょう。私はこれについて、できる限り丁寧に、注意深く思いを巡らせます。そして、新しい運命を発見しようと努めます。私のデザインによって、多少なりとも幸福な運命を歩めるように、そのために必要とされるフォルム、空間、物語の関係について思いを巡らせます。
私たちは愛する女性を可憐な花や愛らしい果実に喩えます。大切な人に、時に病める人に、花束や果物の入ったバスケットを贈ることもあるでしょう。一輪の薔薇は少年に愛の尊さを教え、一粒の林檎は人類に欲の罪深さを教えました。そして何よりも、かれらは私たちの日常に静かに寄り添っています。
かれらは私たちの生活、歴史、心情に深く入り込んでいます。かれらは自らが望むかどうかに関わらず、身を削り、生命のありったけのエネルギーを私たちのために使い果たします。それは、私たちの人生に永遠の愛と理性を教えるためであり、彼女の心、生活の一幕、窓辺、テーブル、空間全体に片時の喜びと休息を与えるためなのです。
かれらの献身に、どのようなフォルムをもって敬意を払うことができるのでしょう。彼女が花を生ける、あるいは果物を手に取る仕草の中に、かれらを慈しむ心情を織り込むには、どのようなフォルムがふさわしいのでしょう。どのような舞台を用意すれば、新しい礼儀作法が生まれるのでしょう。新しい花言葉を読み取ることができるのでしょう。それらはどのような物語の中で語られるのでしょう。
自らを犠牲に多くの問いかけを私たちに届けるかれらの尊厳を守る方法とは。私たちの負うべき責任とは。器が果たすべき役割りとは。それらを実践するデザインとは。
ある解決策が浮かびます。草花や果実を讃えるように収める器のかたちを考えてみます。尊く侵し難い場所にかれらの居場所を設けてみます。ゆとりのある広さや十分な高さを器に与えてみます。物理的に、あるいは隠喩によって。たとえば古代の神聖な空間、西洋の神殿や教会、中東の礼拝堂や東洋の寺院、それらの構造や装飾の中にフォルムを求めることができるかもしれません。たとえば農村の民家の煙突の先、都市を走る水脈の一部にモチーフを見付けても良いでしょう。それらもまた、高さや広さの隠喩になり得ます。薪ストーブの煙突の先から花束が顔を出せば、花は少女の英雄になるでしょう。
断っておきますが、私はデザインを通してかれらに人格を与えようと思索しているのではありません。花や果実には人間と同様に、独自の尊厳と価値があります。誰もそれを侵す権利はありません。いずれにしろ肝心なのは、深刻になり過ぎないことです。「尊厳」などという誇大な響きを持つ言葉を主題の中に掲げる場合は尚更です。常に皮肉とユーモアのためのスペースを残さなければなりません。結局のところ、私がデザインする目的は、愛するひとに微笑みをもたらすことなのです。